東京高等裁判所 昭和55年(行コ)114号 判決
控訴人
地方公務員災害補償基金長野県支部長
吉村午良
右訴訟代理人弁護士
早川忠孝
同
堀家嘉郎
被控訴人
(旧姓柴田)
小松正子
右訴訟代理人弁護士
大門嗣二
同
鎌形寛之
同
小川正
主文
原判決を取消す。
被控訴人の請求を棄却する。
訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。
事実
第一 当事者双方の申立
(控訴人)
主文同旨の判決
(被控訴人)
控訴棄却の判決
第二 当事者双方の主張
当事者双方の主張は、以下のとおり付加するほかは原判決の事実摘示(ただし、同三枚目裏六行目の「休育館」とあるのを「体育館」に改める。)と同じであるから、ここにこれを引用する。〈以下省略〉
第三 証拠関係〈省略〉
理由
一被控訴人の地方公務員としての経歴(請求原因1の事実)並びに被控訴人の公務上災害認定請求と控訴人の公務外認定処分(請求原因4の事実)に関する事実は、いずれも当事者間に争いがない。
二被控訴人の本症発病までの経過
前記当事者間に争いのない事実に加えて、〈証拠〉を総合すると、以下の事実を認めることができる。
1 被控訴人は、昭和三八年に篠ノ井市役所塩崎支所に勤務するまでは、盲腸の手術をうけたほかは、特記すべき既往症はなく、同支所勤務当時も特に勤務に支障になる身心の故障はなかつたが、昭和四二年五月長野市役所篠ノ井支所の仮庁舎に勤務するようになつてから、肩こり、後頭部・足腰の痛み、手指・腕のしびれ、生理痛、声が出なくなる、目がチカチカする等の自覚症状を覚えるようになつた。
2 被控訴人は、昭和四四年五月同市役所篠ノ井支所の市民課資料係に配置換となつたが、ここでも肩こりは治らず、筆記事務をしていると字が踊つて見えたり、目の奥が痛み、物が二重に見える等の目の変調が強くなつてきたので、昭和四五年四月メガネ店でメガネを調整してもらい、同月二七日松本市の平林眼科医院を訪ねたところ、「眼精疲労、軽度の近視(視力左〇・七、右〇・八)」との診断を受けた。同院には翌五月中三日間通院し治療を受けた。
3 被控訴人は、昭和四五年六月から篠ノ井西中学における学校図書館司書の勤務に就いたところ、前記の症状は持続していたものの特に医師の治療を受ける程のことはなかつた。
4 被控訴人は、昭和四六年四月学校図書館司書の廃止により前記中学校において一般学校事務に従事することとなつたところ、前記自覚症状が激しくなつてきた(月が二つに見え、電柱が二本に見える等)ので、同年六月二五日長野市内の順天五明堂病院(内科・眼科)を訪ねたところ、「眼精疲労、多発性神経炎」との診断を受けた。
さらに、翌七月二四日厚生連佐久総合病院内科において受診したところ、「全体に異常なし」との判定であつた。
なお、同月二六日、勤務先中学校々長の奨めで、同校一学年の行事である白根・横手山登山に参加したが、疲労はなかつた。
ところが、被控訴人は、引続き不眠、起床時の疲労感、肩こり等の症状を訴え、同月三一日同病院神経科において受診したところ、「神経症(ヒポコンデリー症)」と診断された。同院ではなお精密検査を予定していたが、被控訴人は通院しなかつた。
5 被控訴人は、同年九月三日前記中学校々長の奨めにより長野市内の柳原整形外科病院で受診したところ、「頸肩腕症候群」と診断された。もつとも、握力検査によると、右三五キログラム、左三〇キログラムであつて、女性として普通値であつた。同病院では、被控訴人の症状の長期化予防の見地から入院を奨め、同月一一日から一二月一八日までの間、同院で頸椎の牽引、温熱療法、水中機能訓練、マッサージ、超短波療法等の理学療法並びに内服薬、注射等による治療を実施した。こうして控訴人は入院中たびたび外出するくらい元気をとり戻し、同月一八日軽快退院した。その後同院へは通院していない。
6 被控訴人は、右柳原病院に入院中である同年一一月二二日長野市内の長野赤十字病院を訪れ受診したところ、「頸肩腕症候群・神経症」との診断であつたが、レ線検査並びに脳波検査の結果はいずれも異常は認められなかつた。同人は翌昭和四七年一月六日再診断を受け、右検査の結果につき説明を聞いた。
7 被控訴人は、昭和四六年一二月一〇日付で、同日から翌昭和四七年四月二日まで休職扱いとなつたが、同年四月三日復職した。
8 被控訴人は、同年三月三日長野市内の長野医療生活協同組合長野診療所において、右の首、肩、上腕にかけて痛みがあると訴え、診察を受けた。診断結果では、首から肩、腕にかけての痛みは首の痛みと関係がないこと、右肩の筋肉が張つているとの症状から頸肩腕症候群の疑いがある、以後一か月の安静・加療の必要があるとのことであつた。その間治療方針として、休養、気分転換、鍼・きゆう、薬物療法等の指示があつた。その後、同人は同年八月末まで(約半年)の間一〇回にわたり通院し治療をうけた(もつとも、そのうち五回は感冒、湿疹の治療である。)。その間なされた検査では、背筋力六五キログラム、握力は右三二キログラム、左二六キログラムであつた。
9 被控訴人は、前記長野診療所に通院中の同年七月三日、同診療所医師の紹介により東京都大田区内の東京民主医療機関連合会大田病院を訪れ、首と肩こりと痛みがあり、人と話をするのがおつくうである。朝の起床が辛い、右腕に痛みとこりがある等を訴え、受診したが、諸検査の結果には異常所見がなかつた(握力・右三五、左二八・五、背筋六五―いずれも単位はキログラム)。診断結果は頸肩腕症候群、脊腰痛症、合併症として自律神経不安定症と判定された。
その後、同年九月一日から翌昭和四八年三月一日までの間入院し、薬物、温熱、理学療法等の治療をうけながら療養生活を送つた(なお、九月一日から一一月二九日までは療養休暇、一一月三〇日以降は休職扱い)うえ、同年三月一日退院した。退院時には自律神経失調症状は次第に好転してきているが、頸部、榜背椎筋群の圧痛硬化、上肢特に右上肢の痛みが強くみられる。瞬発筋力も好転しているが、持久力の向上は十分でないとの主治医の所見がある。
10 被控訴人は前記大田病院を退院後、昭和四九年九月三〇日までの一年半の間、自宅で療養し、一か月に一週間程度山梨県の石和リハビリテーション病院に行つて入浴療法、鍼、マッサージ、頸腕体操の指導を受けるなどし、療養生活を続けた。
以上の認定事実によれば、被控訴人は、その公務従事期間中である昭和四六年九月三日ころ頸肩腕症候群に罹患していたものと認めることができる。
三公務災害の認定基準
地方公務員災害補償法(昭和四九年法律第五二号による改正前のもの、以下「補償法」という。)に基づく補償を請求するについては、その補償の請求の原因である災害(本件にあつては疾病)が、公務により生じたものであることを要することは、同法四五条の規定に照らし明らかであるところ、右にいう災害が公務により生じたものとは、災害と公務との間に相当因果関係のあること(公務起因性)が必要であると解するのが相当である。
そして、労働省労働基準局長が、特定業務の従事者に業務に起因して頸肩腕症候群の発症する場合のあることにかんがみ、労働者の迅速適正な保護を目的とする労災保険における業務上外認定基準として「キーパンチャー等手指作業に基づく疾病の業務上外の認定基準について」と題する通達(基発第七二三号)を昭和四四年一〇月二九日発し、さらに、その後右通達を再検討して昭和五〇年二月五日付を以て基発第五九号(以下「通達」ともいう。)により右認定基準の改定を行つたことは、その内容とともにいずれも公知の事実に属するところ、成立について争いのない乙第二〇ないし第二四号証によれば、地方公務員災害補償基金理事長は、前記労働省労働基準局長の通達の趣旨に則り、地方公務員の公務上の災害認定業務における認定基準並びにその細目を設け、同基金の各支部長に対し認定業務の指針を与えていることが認められる。
而して、地方公務員の災害の公務起因性についての認定にあたつては、当然、補償法並びに基金理事長の通知が行政上の運用基準とされているところであるが、本来、公務上の災害(疾病)と私企業における業務上の疾病との間に本質的差異のある道理はないし、かつ、前記通達ないし理事長通知は、ともに、近時頸肩腕症候群としての労災保険の給付請求者の職種が多岐にわたつてきていること、或いはまた頸肩腕症候群に関する医学面での研究開発が進展しつつあるも後記のとおり、なおいろいろな点で見解の分れる現状にあることにかんがみ、適正迅速かつ斉一的に認定業務を遂行せしめる趣旨から、現時点において最も新しい医学的常識に即した認定基準を設定したものと考えられるところからすれば、前記通達及び通知の両者は認定基準としては実質的に差異があつてはならず、互いに補完すべきものであつて、決して他を排斥すべき関係にあるものではないと解せられ、かつ、そのことを前提として、当裁判所も、これを合理的認定基準として斟酌するのを相当と考える。
もつとも、後記認定のとおり、被控訴人の従事した公務の内容は、右通知、通達がいうところの「キーパンチャー等その他上肢(上腕・前腕、手指のほか肩甲帯を含む)の動的筋労作または静的筋労作を主とする業務」には該らないから、被控訴人については、前記通知、通達が直接認定基準として適用される場合ではない。しかしながら、災害である頸肩腕症候群に罹患した公務員について、右疾病が公務に起因するかどうかを判定することは、帰するところ、当該症例につき疾病と公務との間に相当因果関係があると認めることが医学常識上合理的に納得しうるものであるかどうかに係るところであるから、右通知・通達等が掲げる相当因果関係判定上の合理的基準(例えば、当該労働者の作業態様、作業従事期間及び業務量、身体的条件等についての具体的数値)そのものについては、本件においても可能な限り斟酌されるべきであると解するのが相当である。但し、右通知・通達等がその認定基準に合致しない作業(上肢作業以外の作業)態様からの頸肩腕症候群の発症を否定しているものではないとはいつても、かかる上肢作業以外の作業に従事する者の発症事例については、現段階においては、その作業が本症の発症原因として医学経験則上一般的に肯定された業務危険を伴うものとして、その作業への従事と発症との間に業務起因性を一般的に推定しうるに至つていないところから、認定の迅速性と斉一性とを目的として定められた基準は上肢作業を前提として(その上、その業務量の過重性を加えて)設定されたものと考えられることに鑑みれば、上肢作業以外の場合に公務起因性を肯定するためには、それぞれの場合につき、医学経験則上納得しうるに足りる業務の特異性、労働負荷の有害性が、当該業務の実態に則し個別的に認定されなければならない(その立証責任は補償請求者側にある。)ことになることも、理解されなければならない。
四被控訴人の従事した公務の態様、業務量及び執務環境等について
1 篠ノ井市役所塩崎支所(昭和四一年一〇月以降長野市役所篠ノ井支所塩崎出張所)
被控訴人が同所に勤務したのは、前記のとおり昭和三八年七月から同四二年四月までの間であるが、同所における業務内容は、〈証拠〉によると、市民係として、戸籍届、住民異動届の各受付、戸籍謄抄本、住民票写の各交付、印鑑登録の受付及び印鑑証明書の交付、国民健康保険の受付、妊産婦手帳の交付等の事務のほか本庁との連絡事務等の付帯事務、公民館事務の手伝、各種会議の際のお茶の接待等の雑務等であつたことが認められる。
従つて、右業務は手指作業・上肢作業を含む一般混合事務であつて、前記通達・通知のいう「上肢の動的筋労作または静的筋労作を主とする業務」に該らないものというべきである。
ところで、〈証拠〉によれば、同支所における勤務内容が過重であつた理由として、先ず、市民係には従来三名の職員が配置されていたのに二名に減らされたことを挙げているが、一般に官庁における職員の配置は事務量の現実に相応して臨機応変に定められることは執務定員管理上自明のことであるから、従事員の減少の一事をとらえて業務過重とはいい得ない。次に、被控訴人は、一冊約一・五キログラムの原簿五冊位を執務室から約一〇数メートル離れた保管場所へ毎日運搬したという(〈証拠〉にも同趣旨の記載がある)が、一体右のような運般作業がどの程度の割合で行われたものなのか証拠上不明であること、さらに、昼食時に十分休息がとれず、休日にすら仕事をしたという(〈証拠〉にも同趣旨の記載がある。)のであるが、確かに農村地帯において市民を対象とする窓口事務にあつては昼食時の休息中にも屡々市民との対応を余儀なくさせられることもあるとはいうものの、問題はその頻度或いはまた代休の有無である。右市民係の業務全体の均衡を破る程度に過重な業務量であつたと認めるに足りる証拠はない。なお、市民係の事務の大半が市民と直接応待することによつて占められ、これによりもたらされる職員の精神的緊張は理解できないわけではないが、市民係のこのような業態を直ちに業務過重に結びつけるのは失当である。さらに、被控訴人は、篠ノ井市と長野市との合併によつて事務量が増大したというが、これとても具体的にどの程度の増加量があつたのかにつきこれを認めるに足りる証拠はない。
被控訴人は、また、塩崎支所の執務室について、日中点燈しなければならないほど環境が劣悪であつたというが、巷間そのような事務室のあることは少なくはなく(〈証拠〉に照らしても劣悪な事務室とはいいがたい。)、冬期は暖房設備がなかつたとの点は、〈証拠〉に照らし到底措信することができない。このほかに同支所の執務環境が劣悪であつたと認めるに足りる証拠はない。
以上により、被控訴人の従事した塩崎支所における公務が本症発症の原因となりうるような態様であつたと認めることはできない。そして、同支所における勤務は、本件疾病発生時と目される昭和四六年九月から四、五年以上も遡る点からいつても、右両者間に因果関係があるとすることは相当ではないといわざるを得ない。〈証拠〉も右判断を左右するものではない。
2 長野市役所篠ノ井支所
被控訴人が同支所に勤務したのは、前記のとおり昭和四二年五月から同四五年六月一〇日までの間であり、そのうち、同四二年五月から同四四年四月までは同支所の市民課市民係、同四四年五月から同四五年六月までは市民課資料係である。
そして、〈証拠〉によると、市民係の担当職務は、戸籍届、住民異動届の各受付、印鑑登録の受付、戸籍謄抄本、住民票写、印鑑証明書の各交付、国民健康保険・妊産婦手帳等の交付並びに付帯事務であり、昭和四三年五月一日以降は国民年金事務がこれに加わつたことを認めることができる。
そして、前掲各証拠によると、昭和四二年五月から同四四年四月までの二年間における前記担当職務(市民係)における処理件数は約四万二九五〇件であるから、同期間における月当り件数は三五八〇件、一日当り一四五件ということになる(因みに、〈証拠〉によれば、昭和五六年四月中における同支所における各種証明書等交付申請件数合計は三八八二件である。)。そして、担当者人員数は、昭和四二年五月から翌年四月までは四名、同四三年五月から同四五年五月までは六名であるから、前記一日当りの処理件数を右担当人員数で除すると、約三〇件前後(三六件ないし二四件)ということになる。
ところで、被控訴人の側で問題視する窓口事務のうち、上肢への負担を特に強調する住民異動届におけるノーカーボン五枚複写等の作業量についてみるに、〈証拠〉によると、昭和四三年度は年間(ただし一一ケ月分)三、〇六七件、一月当り二七八・八件、一日当り一一・一件、一人当り(人員数六名)一・八件、昭和四四年度は年間四、〇五五件、一月当り三三七・九件、一日当り一三・五件、一人当り(人員数七名)二・〇件、昭和四五年度は年間(ただし四月から六月までの三ケ月)一、〇二三件、一月当り三四一件、一日当り一三・六件、一人当り(人員数六名)二・三件となることが認められる。
次いで、前記認定のとおり、被控訴人は昭和四四年五月から同四五年六月までは市民課資料係に配置換となつたが、〈証拠〉によると、同係の業務内容は専ら台帳整備であり、同四四年一二月から同四五年三月までの間は、長野市役所における模写電送装置導入のための準備作業としての台帳整備(戸籍のファイル、住民票の改正、印鑑台帳の変更等)の仕事が加わつたことが認められる。
そして、被控訴人が、市民課資料係勤務の期間における時間外勤務の実績をみるに、〈証拠〉によると、昭和四四年一二月中に六・五時間、同四五年二月中は四・〇時間、同年六月中は六・二五時間であることが認められる。
さらに、篠ノ井支所の執務環境についてみるに、〈証拠〉によると、被控訴人が勤務した篠ノ井支所は昭和四二年五月から同四四年五月までの間新庁舎建設のため、長野市立通明小学校体育館が仮庁舎として利用されることとなつたこと、右仮庁舎は天井が高いため、冬期の暖房(石炭ストーブ)の暖気が十分確保できなかつたこと、照明の効率がそれほど良くなかつたこと、声の通りがわるいため、外来者の応接の際勢い大きい声を出さなければならなかつたこと、附近が未舗装道路であつたため、土ほこりが室内に舞いこむことがあつたこと等の不備・難点のあつたことが認められる。しかしながら、同庁舎は庁舎改築にあたりやむを得ず設定された臨時の執務場所であつて、このような仮庁舎がその環境条件において必ずしも良好とはいえない場合のあることは庁舎改築に際しては通例であつて、かつ、このことは公知の事実でもある。そして、このような臨時庁舎に勤務する公務員は、執務環境に若干の難点のあることは、あくまで暫定期間内に解消されるべきことを十分理解し、そして若干の努力によりこれを克服し、かつ環境に順応し得ているのが一般である。もつとも仮庁舎であつても、できる限り執務条件の整備されることが望ましいことはいうまでもないし、〈証拠〉によれば、同支所の職員団体においても当局に対し若干の改善要求(市民課のカウンターの下の床の整備、職員休養室の設置、婦人用トイレの手洗用水道の設置等)を提案している。しかし、同支所の仮庁舎が前記認定程度の不備があつたからといつて(そして、仮に職員団体の右要望が実現しなかつたからといつて)、これを以て仮庁舎としても著るしく劣悪な執務環境とは到底いえないのである。
3 長野市篠ノ井西中学校
前記のとおり、被控訴人は、昭和四五年六月一一日から翌年三月までは篠ノ井西中学校図書館司書勤務、同四六年四月末から本件疾病の発現したと認められる同年九月までの間は、同中学校事務職勤務であつた。
そこで、右各勤務の内容をみるに、〈証拠〉によると、前記図書館司書は、図書の購入、台帳の記載、破損図書の修繕、生徒の読書指導、生徒会の図書委員会の指導等であり、他方、同中学校事務職の内容は一般学校事務(市の予算会計事務、PTA会計事務)の他に特に同校においては遠距離通学補助金交付申請事務がある。
以上の認定事実によれば、被控訴人が勤務した前記篠ノ井支所市民課並びに篠ノ井西中学校における公務は、その間に筆記、書類の運搬、コピー、来庁者との応待、その他種々の雑務が混入する混合作業というべきものであつて、いずれも一般的な事務作業に属するものと解されるのであり、これらを以て、上肢(上腕・前腕・手・指のほか肩甲帯を含む)の動的筋労作(例えば打鍵などのくり返し作業)または上肢の静的筋労作(例えば上肢の前・側方挙上位などの一定の姿勢を継続してとる作業をいうが、頸部を前屈位で保持することが必要とされる作業を含む)等、身体の主として上肢のみを過度に使用するような勤務でないことは明らかである。
従つて、本件において被控訴人の従事した前記公務の作業態様は、前記労働省基準局の通達又は公務員災害補償基金理事長の通知等所定のものとは異り、これに準ずるものともいえないから、右通達等を根拠として被控訴人の本件疾病と業務との因果関係を推認することはできない。
4 業務量過重の有無の検討
しかしながら、一般的な事務作業に従事する者であつても、前記通達・通知の趣旨に沿つて考えてみると、業務量が同種の他の公務員に比較して過重である場合、または業務量に大きな波がある場合には、当該公務と疾病との間に因果関係を肯定すべき場合のありうることは否定できないから(被控訴人も自己の従事した業務が過重であつたと主張するところである。)、このような観点から被控訴人の従事した公務の作業量について以下検討する。
(一) 先ず、篠ノ井支所市民課市民係一人当りの担当事務量は、すでに認定したとおり、一日当り約三〇件前後であり、住民異動届におけるカーボン五枚複写等の作業量は約二件前後であり、いずれも決して過重な作業量とはいえない。また、すでに認定した当時の被控訴人の時間外勤務時間からみても、そのことが裏付けられる。また、市民課資料係の作業量も市民係の作業に準ずるものであるから、これも同様に過重な作業量とはいえないものである。
次に、篠ノ井西中学校における業務であるが、図書館司書勤務は前記認定のとおり図書の整備ないし中学生相手の不定量の読書相談・指導業務であつて、どちらかといえば閑職ともいうべきものであり(従つて、一年足らずの間に同職務は廃止されるに至つた。)、他方、学校事務の方は補助金申請事務が学年初めの四月、五月中に集中するけれども、これも時間外勤務を要するほどの業務量とはいえない。
もつとも、右補助金申請事務は学年初めの四、五月期に事務が輻湊し、これを担当者一名で約三五〇名の生徒から提出された申請書を整備し、五月末の申請期日にまに合わせるようにしなければならない拘束がある。しかしながら、〈証拠〉によると、同中学校勤務期間中の時間外勤務の実績は、昭和四五年六月中に六・二五時間、同年一〇月中に六・七五時間にすぎなかつたことが認められる。
以上によれば、被控訴人が篠ノ井支所及び篠ノ井西中学校において従事した公務の業務量は、同種の他の公務員に比較して特段過重であつたと認めることはできない(前記労働省通達の認定基準は、上肢作業につき、同種の公務員と比較して概ね一割以上業務量が増加し、その状態が発症直前三か月程度継続したとか、或いは、一日の業務量が一か月平均業務量の二割以上増加し、そのような状態が一か月のうち一〇日程度認められる場合、又は、一日の勤務時間の三分の一程度にわたつて業務量が通常の業務量の概ね二割以上増加し、そのような状態が一か月のうち一〇日間程度認められたといつた事情がある場合には、業務量が過重であり、或いは業務量に大きな波があると判断されるものとしているが、本件を右基準に照らしてみても、業務量の過重等を認めるに足りる証拠はないのである。)。
なお、右平均的業務量とは何を指すかにつき争いがないわけではないが、すでに認定したとおり、被控訴人が勤務した篠ノ井支所には本人と同種の業務(市民係・資料係)に従事した職員が数名おり、そして、右業務量についても平均値が算出され得るところである。他方、篠ノ井西中学校において一般学校事務に従事していた者は被控訴人独りではあるが、その業務のうち、被控訴人の重視する遠距離通学費補助金交付事務は、〈証拠〉により明らかなとおり、被控訴人が勤務していた時期特有の事務ではなく、何年にもわたつて同校の学校事務の一つとして包含され、かつ、その業務量も毎年さしたる変動の見られないことからすれば、自らその業務量の平均値も定つているものと解されうるのである。従つて、本症の公務起因性の判定上、平均業務量が得られないとの主張は失当というべきである。
(二) 右(一)の判断に対する反論を検討するに、〈証拠〉によれば、被控訴人が本件疾病発生の原因として特に強調するところは、長野市役所篠ノ井支所市民課勤務(昭和四二年五月から同四五年六月)の約三年間における過重労働と同支所の仮庁舎の執務環境の不良並びに篠ノ井西中学校勤務における遠距離通学者補助金交付申請事務等によるものというにある。
しかるに、〈証拠〉によれば、肩こり、頭痛、足腰の疲れ等の症状は、篠ノ井支所勤務のころ(昭和四二年)からすでに始まつていたというのであるが、右症状をもつて本件疾病の前駆症状という趣旨なのかどうか必らずしも明らかではないが、いずれにしても右程度の症状は勤労者であれば多くの者が日常的に多少とも体験しているところであつて、直ちに採り上げるには足りない。被控訴人本人尋問の結果(原審)によれば、被控訴人が篠ノ井支所勤務をするようになつてから始まつた前記のような症状は、さらに進行するばかりでなく、この他に声が出なくなつたことがある、指先に痛みを感ずる、目の痛み、腕の痛み、手のしびれ、足腰の冷え、生理痛等も加わるようになつたという。当裁判所は、後にも触れるとおり、被控訴人が自己の症状その他を述べる場合に、かなりの誇張があると判断するものであるが、それはとも角として、本人は勤務にも影響があるような種々の前記症状があつたとしながら、篠ノ井支所勤務の約三年間のうち、前記症状により医師の診断治療を受けたのは、〈証拠〉によると、昭和四五年四月二七日平林眼科医院(医師平林重宣)での受診があるだけである(原審及び当審において、被控訴人はその理由を述べるが、いずれも納得できるものではない。)。しかも同号証によると、右医師の診断の結果では、病名・眼精疲労、症状は軽度の近眼(裸眼視力、左〇・七、右〇・八・矯正視力、左一・二、右一・〇)で、それが目の疲労につながつたというものである。本人の訴える症状は右の程度にすぎない。
ところで、篠ノ井支所における昭和四四年ころの職員一人当りの担当事務量は、すでに認定したとおり(一日約三〇件)であるが、被控訴人は原審で、統計資料(すなわち甲第一号証の二〇)に記載された業務以外に、交通災害、母子手帳、失対手帳等の交付事務並びに電話の応待等があつたと述べている。しかし、その取扱数量には言及していないところからみて、それほど負担になるほどの件数があつたとも思われない。
また、被控訴人は、同支所の配置人員数そのものが不適正であると述べているが、〈証拠〉によれば、長野市役所並びに各支所における市民課の職員配置基準は、各事業所管内の人口数に応じて定められているところであり(もつとも〈証拠〉によれば、本庁・各支所とも職員一人当りの人口は差があるが、これは当然各支所毎の事情を勘案したうえのことであろうと推認される。)、格別不合理の点があるとも思われない。
さらに、被控訴人は、本件疾病の発生原因の一つとして、同支所において担当した住民異動届受付事務における五枚複写ノーカーボン紙のボールペンによる記入作業を繰り返し主張し、原審においても右主張に沿う供述をなし、〈証拠〉によれば、昭和四七年三月三日受診した長野医療生活協同組合長野診療所の山内節朗医師に対し、最初の症状(右の首、肩、上腕にかけての痛み)が出る前に五枚複写の事務用紙をボールペンで毎日右手指で力を入れてたくさん書く仕事を六年間続けたと訴えている。しかしながら、すでに認定したとおり、右記入作業の事務量は、一日一人当り平均約二件程度であつて、しかも、〈証拠〉によると、右異動届記載事項の大半は、届出人自身がすることになつているものであり、担当者はそれを補正する程度であること、記載字数もそれほど多くはないこと等からすれば、被控訴人の主張ないしこれに沿う供述は、前記統計に現われない諸般の事情を斟酌すべきものとしても、なお誇張以外の何ものでもないといわざるを得ないのである。
被控訴人は、篠ノ井支所における業務量の過重であつたことの事情として昼休みも勤務から開放されなかつた旨原審で供述する。そして、〈証拠〉によれば、右被控訴人の供述に沿う記載ないし証言がある。確かに、制度上は、職員に昼休み時間が権利として与えられているところではあるが、篠ノ井支所のように農村地帯に存在する役所に、付近住民が昼休み中来庁した場合、窓口係の職員が休息中であることを理由に来庁者との応接を拒否することのできない場合のあることは容易に首肯できるところである。問題は、右のような来庁者がどの位いたか、他方、昼休みがとれなかつた場合、代休も与えられなかつたのかどうかの点についてであるが、これらについては、前掲各証拠によるも必ずしも明らかとはいえない。しかし、〈証拠〉からすれば、昼休みに来庁者があつた場合、職員が交替して対処していることも窺われ、窓口係が全く代休もとれなかつたというようなことまで認めることはできない。
被控訴人は、また職場において同僚と肩のもみあいをするほど疲労していたと供述し、証人岡田栄子(原審)も同趣旨の証言をしているが、昨今、いずこの職場においても軽度の疲労回復体操の実行が奨励されているのであつて、そのこと自体何ら異とするに足りない。
これと関連し、被控訴人が同支所勤務時に時間外勤務に従事した実績につき検討してみると、前記のとおり、昭和四四年一二月中六・五時間、同四五年二月中に四・〇時間であることが認められる。昭和四二、四三年中については不明であるが、〈証拠〉によれば、残業は殆どとらなかつたということである(もつとも、窓口係は残業の請求ができなかつたとか、体の具合が悪かつたからという理由を挙げているが、後記のとおり右は措信できない。)から、要するに、それ以上の残業をしなければならないほどの作業量があつたことは認めがたいと結論せざるを得ないのである。
なお、被控訴人は、篠ノ井支所勤務時代に体調に異常を来したのは、過重勤務のほかに遠距離通勤の負担があつたことによると供述(原審)している。しかしながら、〈証拠〉(地図)によると、被控訴人の自宅と同支所庁舎との距離は約三キロメートルであり、本人の供述によつてもバス約一〇分と徒歩若干分(本人は徒歩二〇分ないし二五分というが措信しがたい。)の所要時間なのであるから、これを遠距離通勤と称するのは誇張に過ぎるものであつて、右程度の通勤距離(時間)が本人の心身に異常をもたらすとは到底考えられない。
以上認定したところにより、当裁判所は被控訴人の従事した篠ノ井支所における市民課市民係(いわゆる窓口係)の職務が過重な業務であつたという被控訴人の主張並びに右主張に沿う供述(原審)は、これを容認することはできないのであるが、だからといつて、同職務が軽易な内容であつたというものではない。すなわち、〈証拠〉によれば、市役所の本庁ないし支所の窓口係は、市民と直接応対しながら行政サービスを行う業務であつて、係員は未知の来庁者と応接することからすでに心理的緊張を強いられるが、市民の側において故意によると誤解によるとを問わず、行政サービスに対し過大な期待を抱く者が現われたような場合には、些細なことから係員との間に軋轢の生ずることも稀ではない。このことにより、窓口係としての経験年数如何にもよることながら、当該職員が多大の心理的緊張感にさらされることも見易い道理である。後記のとおり、被控訴人は、殊に神経症の傾向があり、このような心理的緊張感が同人にストレスを招来させたことは否定し得ないところと思われる(〈証拠〉によれば、篠ノ井市が長野市と合併した昭和四二年ころ、窓口事務が一時期混雑したことのあつたことが窺われるが、その場合は、被控訴人がいうように一時に二〇人ないし三〇人の市民が押しかけたというのは誇張にすぎず、〈証拠〉に照らし認めがたい。)。しかしながら、飜つて考えてみると、この種のストレスは、サービス業務には、公務であれ、私企業であれ、不可避的に随伴する職業上の負担ともいうべきものであつて、市役所支所特有のものということはできない。却つて、支所に来所する者の多くは、付近住民であつて、当該地方の風俗・人情・方言等を共通にする狭い生活圏に属する者同士であるから、相互に何らかの親近性があるわけであるし、また、被控訴人は窓口業務には慣熟し、同僚からも一目置かれる存在になつていたことが前掲各証拠からも窺知しうるから、右業務遂行から生ずるストレスも、むしろかなり克服されていた筈ともいえるし、それほど過大に評価できないともいえるのである。よつて、以上の事情を総合勘案するならば、窓口係の業務にストレスを誘発する特異性があるからといつて、これを当該業務特有の有害性やその過重そのものに直接連結させることは相当でないというべきである。なお、仮庁舎の執務環境の劣悪さという点については、さきに判示したとおりである。
次に、〈証拠〉によれば、篠ノ井西中学校における業務のうち、生徒の通学費補助金交付申請事務は、ペンが持てなくなるほどの過重な勤務であつたと供述している。すでに認定したとおり右申請事務は、申請生徒約三五〇名の人数について、その預託にかかる印鑑の押捺、書類の整理等をなし、しかもこれを学期初めの、四、五月中に完了しなければならないという負担を伴うところから、決して軽作業ということはできないが、〈証拠〉によれば、右事務は数量は多いとはいうものの比較的定型的内容の部分もあり、もとより複雑困難な作業とはいえない。〈証拠〉によれば、右作業によつて、腕・肘に痛みが生じたことはあるが、時期が過ぎれば忘れてしまう程度の一過性のものというのであり、他方、被控訴人が同中学校の一般学校事務に従事してから時間外勤務をしたという実績も見当らないのである。そうだとすれば、同中学校における業務量は、四月、五月中に一時的な繁忙状態の生ずることはあつても、恒常的であつたとは認められない。そして、およそ官公庁の事務には時期による繁忙の度合の異なることは一般的に避けられないのであるから、同中学校における前記業務実態を以て過重な業務とは到底いえないものである。被控訴人の主張ないし供述は、失当として採用することができない。
(三) 被控訴人は、本症の公務起因性の判断に当つては、標準的業務量ではなく、認定を受けるべき者にとつての適切な業務量を基準として過重であつたかどうかを判断すべきであるとも主張する。
確かに、現実の業務量とそれに従事する者にとつての適切な業務量との間の不均衡が原因となつて当該公務に潜在する危険性が顕在化し発症ないし増悪に至つたと明らかに認められる場合には公務起因性が肯定されるべきであるとする一般論をいう限りでは、所論は必ずしも失当とはいえない。しかし、ここで問題なのは、頸肩腕症候群について、業務量の過重と発症との間に相当因果関係があるとされるための前提として、本人の素因等、想定される公務外の要因と並ぶ相対的に有力な発症の原因として指摘することが医学上の経験則に照らし首肯し得る程の、業務の負荷が認められるか否かである。業種にもよることではあるが、標準的な業務量に比較して過重な業務負担が認められる場合の発症例については、その負担過重が有力な発症原因となつたものと推認し易いが、逆に、単に公務従事期間内に発症し、他に発症原因と思料される事由を見出し得ないことのみから、発症原因として指摘するに足る程の業務量の過重性(個体にとつての不均衡)を遡つて推認するわけにはいかないことは、頸肩腕症候群についての発症の機序が必ずしも十分に明らかではなく、医学上原因不明とされる症例も極めて多いといわれていること(この点は公知の事実であり、本件の全証拠関係からも明らかであるが、後にも言及する。)に思いを致すとき、見易い道理というべきである。そういう職種にそういう分量・態様で従事していれば、発症してもなるほど無理はないと納得し得る場合であつて初めて、疾病の公務起因性、公務との間の相当因果関係が肯定されることになるのであり、右通知・通達において業種とともに業務量の過重性を基準に採り上げているのも、その趣旨に出たものとして理解し得るところであつて、かかる一般的基準によらないで、標準的業務量とは無関係に、業務の個体にとつての不均衡を個別的に認定し、相当因果関係を肯定しようとすることは、一般とは明らかに異なる加害要素を指摘しうる特段の事情の存しない限り、困難となることはやむを得ないところである。そして、上記認定のとおり、業務の内容が一般的混合事務の域にとどまり、その業務量においても時に多少の繁忙さはあるにせよ全般には格別の加害性は認め難い本件においては、所論の観点に立つても、のちに結論として説示するとおり、積極の結論を導き出し得るには至らなかつたところである。
五本件疾病発生前後における被控訴人の身心の状況について
1 すでに述べたとおり、被控訴人は篠ノ井支所勤務当時、腕のしびれ、目の痛み、頭痛、肩こり等の症状があつたと主張し、それに沿う供述をしてはいるのであるが、それにもかかわらず、医師の診療を受けたのは、同支所勤務も終りに近い昭和四五年四月二七日になつて、平林眼科を訪ねただけであり、そして、病名は軽度の近視に因る眼精疲労であつた。
他方、〈証拠〉によると、被控訴人は、職場の同僚に肩こりの症状のあることは訴えてはいたが、仕事の方は要領よく快活に処理していたので本人に前記のような病識のあることは誰も気付いていなかつたことが窺われる。
2 被控訴人は、昭和四五年六月一一日から約一年間、篠ノ井西中学校学校図書館司書として勤務したが、その間、肩こり、目がチカチカする等の症状は持続していたとはいうものの医師を訪ねたことは一度もなかつたのであるから、健康状態には特に問題はなかつたものといえよう(そして、前記認定の右期間中における職務内容を併せ考えると、右一年間のうちに、被控訴人にこれまで蓄積されたとされる心身の疲労は、相当程度解消されたものと解される。)。
3 被控訴人は、昭和四六年四月以後、篠ノ井西中学校の一般学校事務担当勤務となつたが、〈証拠〉によると、被控訴人は、月が二つに見える、電柱が二本に見える、視力が弱つて非常に疲れる等の症状があるとして、同年六月二五日長野市内の順天五明堂病院(内科・眼科)の小林宗一医師の診断を受けたところ、病名は、「眼精疲労・多発性神経炎」であつた。同医師の所見によれば、右疾病はいずれも、疲れからくるものであるという。
4 すでに認定したとおり、被控訴人は同年七月二四日、三一日と厚生連佐久総合病院の内科及び神経科において受診したが、内科では「全体に異常なし」、神経科では「神経症(ヒポコンドリー症)」との診断であつた。〈証拠〉によれば、被控訴人は医師に対し、肩がこるとか疲れるといつた症状があること、六月ころから時々眠れないことがあり、悪夢を見るようなこともある、朝の起床がおそく、夜は労組の運動のためおそくなる(被控訴人が昭和四三、四四年頃職員組合青年婦人部の役員を勤め、勤務終了後市役所本庁に出向いて会議に参加していたことは、自ら認めるところである。)、仕事中ぼんやりしていて計算違いをすることがある等と訴えていることが認められる。また、〈証拠〉によると、同中学校の校長であつた宮内は、被控訴人が年令が若い(当時三〇歳)のに元気のない顔をしており、肩の痛み、首すじの張り、目がちらつく等の症状を本人が訴えているのを聞いていると述べていること等からみて、当時、本人が心身の非器質的な障害に悩んでいたことが認められる。ところが、本人は右のような苦しみを背負いながらも、他方、前記認定のとおり、時には、労組運動のため夜おそくまで活動することもあつたり、中学生とともに登山できるほど体力に余裕のあつたことも窺われるのである(もつとも、右労組活動について、被控訴人は原審及び当審で、医師が本人の言う趣旨を聞き違えてカルテに記載したものと供述しているが、右記載の内容が誤記であつたとまでいうことはできない。当裁判所は、被控訴人の労組活動が本症の発症原因となつたとは考えないが、被控訴人の日常の疲労の程度が、右のような時間外活動とも両立しうる程度であつたことは、斟酌しないわけにはいかない。)。
5 被控訴人は原審で、同中学校在勤中、ペンが持てなくなり、一字か二字書くとペンを落してしまう位、腕や肩の力が衰え、カチンカチンに肩が凝つていたと述べている。しかしながら、すでに認定したとおり、その後まもなく入院した柳原整形外科病院で測定した本人の握力は成人女性の平均値を示しているのであり、また、肩の凝りは確かにあつたことは認められるが、本人が訴えるほどのものであつたかどうかは〈証拠〉に照らし、疑問がある。さらに、そのような状況下にありながら、休暇もとらず勤務していた理由として、被控訴人は、校長が職員同士のつき合いを禁ずるとか、年休をとるなとかいつた指示があつたので、このような労務管理を強化する雰囲気内では容易に休暇の申出はできなかつたという趣旨の供述をしている。しかし、同校校長は、本人の健康状態を案じて、前記のとおり山登りの行事に参加することを奨めたり、後記のとおり柳原整形外科へ行くようとりはからつたりしているのであつて、被控訴人の右供述は、学校側の休暇をとる際の指針を曲解したものであるか、自己の主張を正当化するための強弁としかいうほかはない。
6 すでに認定したとおり、被控訴人は昭和四六年九月三日柳原整形外科で受診したが、証人宮内貞雄の証言によれば、右受診は、被控訴人の訴える症状がはかばかしく好転しないとの歎きを耳にしたところから同校長が本人に奨めたものであることが認められる。
ところで、右受診の際、被控訴人は、柳原整形外科へはかつぎこまれるようにして臨んだ旨原審で述べている。しかし、右受診は宮内校長のすすめによるものであつて、自発的なものではないこと、本人はそれまで、自宅で症状部位に膏薬を貼るとか、にんにく灸をしてもらうといつた程度の民間療法でしのいできたと自陳しているものであること、〈証拠〉によれば、柳原医師の診察に際し、本人は極めて自然に診察室に歩いて入室したというのであるから、前記被控訴人の供述は極めて誇張に満ちたものというほかない。
7 〈証拠〉によると、被控訴人が柳原整形外科で受診した際の本人の訴えは、数ケ月前から肩こり、頸部の鈍痛があること、自律神経のバランスをとる必要があると他の医師からいわれていること、肩こりは職場の窓口係を勤めていたころの疲れからくるもの等ということであつた。そして、初診時の症状としては、上肢の脱力感と頸部痛、後頭部痛等があつたが、上肢の筋肉萎縮・知覚異常は認められないし、握力、血圧、血沈等は通常値(ただし血圧が少し低目)であり、レントゲン写真では頸椎の骨異常、変形も認められなかつた。そこで引続き九日間外来通院による治療がなされたが、症状が判然としないため、すでに述べたように、柳原医師は症状の長期化予防の見地から(同医師は、被控訴人と同様の症状を訴えていたある女子労働者を入院させたところ好転した臨床例があつたという。)入院させることとしたところ、次第に好転し、たびたび外出するようになり、元気に退院したことが認められる。
ところで、被控訴人は、原審で、柳原整形外科を退院したのは、担当の青野医師がこの病気は長野県では治らないと言われていたとか、柳原医師が退院を認めないというので自分の意思で退院したものであるとか、青野医師がどんどん動くようにと指示するので散歩に出ると、あとで必らず発熱し、入院中は微熱の連続であつたと供述している。
しかし、右退院の経緯に関する被控訴人の供述は、前記各証拠に照らしたやすく措信できないし、また〈証拠〉によると、同整形外科入院中約三ケ月のうち、発熱があつたのは、同年九月二〇日の一回(三七度)だけであつて、その余は継続して平熱を示していることが認められるのである。なお〈証拠〉によれば、同人が調査のため同整形外科の事務長と面談した際、同事務長は、入院中の被控訴人が、患者達の要望をまとめたとして、テレビのうつりをよくせよとか、暖房が弱いので強くするようにとかいつた環境改善に関する折衝を要求するのでその対応に苦慮させられた旨述べている。
従つて、被控訴人が同病院を退院した経緯、入院中の動静等、以上認定した事実関係に照らすと、同病院での入院加療により被控訴人の頸肩腕症候群による症状はかなりの程度まで快方に向かつていたということができる。さらに、柳原証人の証言によれば、同医師は被控訴人が引続き通院することにより右疾病を克服することを期待していたのであるが、退院後本人は一度も通院しなかつたことが認められる。
8 すでに認定したように、被控訴人は、柳原整形外科に入院中である昭和四六年一一月一二日長野赤十字病院整形外科に受診し、「神経症・頸腕症候群」と診断されている。そして〈証拠〉によれば、被控訴人は同病院の医師に肩こり、圧痛があると訴えていたが、レントゲン検査並びに、神経科での脳波の検査にはいずれも異常は見出されなかつたこと、医師の所見によれば、被控訴人の訴える肩こりは勤労に従事する限り誰にでもおこるものであることを指摘していることが認められる。
ところが、被控訴人は原審で、右赤十字病院で受診した経緯につき次のように述べている。すなわち、柳原病院に入院加療中、レントゲン技師から首の骨に異常があると告げられたので不安になり、人にも勤められたので右赤十字病院に赴いたこと、レントゲン検査の結果はどこにも異常はなかつたこと、却つて神経科の医師からどんどん働きなさいと言われ、当時五分位しか歩けない状態であつたので右医師の意見を聞いて大変驚いたというのである。
しかしながら、前記認定のとおり、被控訴人が右赤十字病院へ赴いた同年一一月二二日ころは、柳原整形外科での入院加療により本人の病状はかなり好転していたものであり、本人が述べるように五分位しか歩けなかつたというのは甚しい誇張である。そして、赤十字病院での右受診の動機もたやすく措信できないものであり、かつ、それも柳原整形外科の医師に断りなしになしたものであることからすると、被控訴人の医師に対する不信感には相当根強いものがあることが窺われる。これは要するに、自分自身の納得するような診断をしてくれる医師を求めていることの証左であつて、巷間このように医師を求めて転医を繰り返す患者は少なしとしないが、被控訴人の上述した行動についてみれば、前記のとおり医師(佐久総合病院)もはつきりと診断しているように、疲労感、頭痛感その他の数多い愁訴を主徴とする神経症(ヒポコンドリー症)の症状に類する症状を示していたものといわざるを得ないのである。
9 被控訴人は、すでに認定したとおり、昭和四六年一二月六日休職となり、自宅療養をしていたが、翌四七年三月三日長野医療生活協同組合長野診療所で受診したところ、診断による病名は「頸腕症候群の疑い」であつた。〈証拠〉によれば、初診に際しての本人の訴えは、従前諸所で治療を受けたが、現在なお右の首、肩、上腕にかけて痛みがあるというものである。同診療所の山内節朗医師の診断した結果では、大要、首から肩、腕にかけての痛みは、首の痛みと関係はない、右肩の筋肉が張つていること、よつて、頸腕症候群の疑いがあり、今後一ケ月の安静加療が必要というものである。被控訴人は、初診後同年八月末までの間一〇回通院(もつとも、そのうち五回は感冒・湿疹の治療のためである。)したが、その間の治療として、休養、気分転換、針、灸、薬物療法(痛み止め)等が指示されている。また背筋力検査は六五キログラム、握力検査は右三二キログラム、左二六キログラムであり、いずれも成人女子として普通値であつた。通院による治療の効果は顕著とはいえないが、初診後約三ケ月経過したころ、やや体のだるさが恢復してきたとの本人の自覚があるが、他方、仕事をすると(本人は昭和四七年四月三日復職)、右上肢が重いとも訴えているところである。ところで、右山内節朗医師の所見によれば、事務員がボールペンで複写関係の仕事をしたり、ペンで力をいれて字を書くこと、又は字もしくは物を見ながら手指を使うことによつて頸肩腕症が発症しやすいこと、単に神経を使う(脳疲労)だけでは発症しないと考えると述べている。以上の事実を認めることができる。
右認定事実と前段認定事実とを併せ考えると、被控訴人の症状は、長野赤十字で受診したときとさして逕庭がないものとみられるところ、本人は同病院の医師の診断に不満を抱き、同病院での治療を拒否して長野医療生協診療所を訪れたものと推認される。しかし、同診療所での診断・治療も長野赤十字と異なるところはないといわざるをえない。
なお、生協診療所医師の前記所見は、ボールペンによる筆記作業と頸肩腕症発症との間の因果関係につき一般的見解を述べたものにすぎないのか、それとも、被控訴人の症状について具体的判断を述べたものなのかどうか必ずしも明らかとはいえないが、後者(具体的判断)であるとしても、その判断の前提となるべき筆記作業の質・量については、被控訴人が、同医師に対してなした、本症状が現われる前に五枚複写の事務用紙をボールペンで右手指に力をいれて毎日相当枚数筆記する作業を六年間継続従事したとの訴えを前提としているものと考えられるところ、被控訴人の右訴えそのものの内容は、すでに説示したとおり誇張に過ぎるものにほかならないから、同医師の所見は、ひつきよう一般的見解を述べたと解するにとどめるのが相当である。
10 被控訴人は、すでに認定したとおり、長野医療生協長野診療所に通院中の昭和四七年七月三日同診療所石原医師の紹介による東京民主医療機関連合会大田病院(東京都大田区所在)において受診し、診断病名は「頸肩腕症候群、背腰痛症、合併症、自律神経不安定症」とされたものである。そして、〈証拠〉によれば、被控訴人は、①頸部・肩のこり、右上肢の痛み、だるさ、②背部の痛み、腰の痛み、③全身の易疲労感等を訴え、これに対する医師の所見は、触診で左右頸部、背部、腰部、肩、上肢に圧痛硬化を認めた。筋萎縮は認められない。ラセグ徴候は左右共に陰性、アキレス膝蓋腱反射正常、病的反射はない。視力は左右共一・二、瞬発筋力では握力右三五・左二八・五、背筋力六五キログラム。レ線所見では胸部影像、頸椎、腰椎等に異常は認められない。血液・尿一般検査正常。リウマチテスト正常、血清生化学テストにも異常を認めず、血圧一一〇―五八、脈七二(分)で整、心肺共に異常は認められないというものであつた。
本人は、同年九月一日同病院に入院し(翌昭和四八年三月一日退院)、その経過としては、当初は自律神経失調症状が強くみられたが、薬物、温熱、理学療法を行う中で自律神経失調症状は次第に好転してきている。しかし、なお頸部、榜背椎筋群の圧痛硬化、上肢特に右の痛みが強くみられる。瞬発筋力も好転しているが、持久力の向上は十分でないというものである。なお、脳波検査では徐波バーストが出ていたが、退院時には良くなつたとされている。
さらに、同病院の斉藤和夫医師の見解によれば、疾病の発現、経過並びに本人の従事した作業内容、職場環境が現在の疾病の主たる原因と考察されるとしているが、本人の作業内容は本人の訴えをとりいれたこと、また、本人は僅かなボールペン使用にもかかわらず自律神経不安定症のベースのうえに立つて頸肩腕症を増悪させたものではなかつたかと考えられると述べている。以上の事実が認められる。
右認定事実によれば、頸背部、肩、腰、上肢等に触診による圧痛硬化が従前よりも強く認められた以外は、心身の状況は従前本人が他の病院・診療所で受けた診断内容と基本的には差違はないものと認められる(前記自律神経不安定症も従前診断された神経症とは無縁のものとはいえないと思われる。)。ただ、被控訴人も原審で供述しているように、本人は大田病院において自己の求めていた医師に初めて遭遇し得たという安定感から、同病院の治療を継続して受けるようになり、かつ協力的であること、医師に無断で他の病院・診療所に再度診察を仰ぐようなことはしていないこと、これらは大田病院において本人の精神的安定が定着したものとみることができる。
他方、同病院の医師の見解によれば、被控訴人の本症と同人の従事した公務との間に因果関係があるというのであるが、その前提とされている公務の内容はすべて被控訴人の言い分をそのまま認めたうえでのことであるというのであるから、すでに述べたとおり、被控訴人の従事した公務の内容については同人の主張をそのまま肯認できない以上、右医師の前記見解をただちに採用することはできないといわざるを得ない。
六本症と公務との関連性について
1 〈証拠〉によると、以下のとおり認められる。
いわゆる「頸肩腕症候群」とは、種々の機序により(局在性の原因は不明である)後頭部、頸部、肩甲帯、上腕、前腕、手及び指のいずれか、或いは全体にわたり「こり」、「しびれ」、「痛み」などの不快感をおぼえ、他覚的には当該部諸筋の病的な圧痛及び緊張若しくは硬結を認め、時には神経、血管系を介しての頭部、頸部、背部、上肢における異常感、脱力、血行不全などの症状をも伴うことのある症状群に対して与えられた名称である。従つて、それは確定診断を意味するものではなく、それをめざす仮の診断とされるのが一般である。
右病状を訴えて診療を求める患者は近時多数にのぼるが、病状の原因は甚だ複雑といわれ、今日もなお不明の点が少なくないとされる。例えば山口大学整形外科では、外来患者の八六%について同症候群発症の誘因が認められなかつたとされ、さらに、入院精査を行つたにも拘らず、その原因を明らかにし得なかつた患者は三〇パーセントを占め、さらに、同大学で受診した本症候群患者八二五例について予後調査を行つた結果、不変及び悪化例が三二パーセントを占めていることなどからみても、本症候群患者の原因探究や治療が必ずしも容易でないといわれる所以である。
臨床症状についても複雑多彩である。例えば、頸部痛、肩部痛、上腕痛、前腕痛などであり、時として頭重、頭痛などを訴えるものや、背痛を伴うものも少なくない。また偏側や両側の頸筋、背筋の緊張(こり)があり、上肢の知覚障害、知覚鈍麻、シビレ感などを訴える。時として上肢の脱力感や冷感、また発汗異常を伴うこともあり、上肢の腫脹、変色などの症状が現われることもある。これらの諸症状は単独で起つて来る場合もあり、また種々組合わさつて起つてくることもあり、お互いに原因が結果となり、また結果が原因となつて同様の所見を呈することが多い。それ故、診断が困難な場合も少なくない。
このうち、病態の明らかな個々の独立した症患としては、急性の外傷により惹起される捻挫、骨折、主として加令的な退行性変性によるところの頸部脊椎症を究極の姿とする頸部椎間板症、腱鞘炎、五十肩、頸椎奇形、上腕外果炎、後縦靱帯骨化症、ねちがえ等があり、稀には、脊髄腫瘍や炎症性斜頸、遅発性尺骨神経麻痺等の疾患が存在することもあるが、圧倒的に多いのは病理学知見や客観所見等の得られない病態不詳の前記各種臨床症状を呈する疾患であり、整形外科医家の間では、通例これを狭義の頸肩腕症候群と呼称している。
右症候群は、年令・性などからみると二〇歳から三〇歳代がピークで特に未婚女性に多発している。職業についてみると、事務をとつたり、事務機器を使用したり、その他医療関係の各種検査を行つたりする職業などで特に冷房のきいた部屋で長時間にわたり上肢を主に使用する場合に発症をみることが少なくない。もつとも、特定の臨床現場(例えば、慶応義塾大学整形外科)では、狭義の頸肩腕症候群に入る外来患者のうち、三五才以下で愁訴が三ケ月以上続いた慢性例についてその職業別内訳をみると、必ずしも上肢だけを選択的に繁用する人だけに限られていないという数値が示されている。むしろ、受診患者の比率からいえば、そうでない職種の人の方が多くなつている。もちろん母集団の数の比率からいえば、上肢を繁用する集団により頻発していることは確実であるが、臨床医家の観察するところによれば、本症患者には肩甲帯や上肢への過重負荷という因子以外の要素、すなわち、肩甲帯を支持する筋肉群の発育不良や過伸展性、或いは肩甲帯の保持、安定性に欠けるところがあることは確実であるし、これらを本症候群発症の一つの素因に加えるべきであるとしている。
ところで、昭和三〇年以降社会問題となりつつあるといわれるタイピスト・キーパンチャー等に多いとされている頸肩腕症候群は、上肢を主として使用する作業労働者にみられる障害であつて、上肢運動器の弱体状態にあるものが頸椎肩甲帯から上肢に静力学的負荷がかかつて歪を生じ発症するもので、全身を均等に使わない状態が持続したときに不定愁訴が加わつて心身ともに不健康の状態を来した病態といわれている。日本産業衛生学会(以下「産衛学会」ともいう。)では、昭和四六年ころよりこのような職業起因性頸肩腕症候群を一般のそれと区別して「頸肩腕障害」なる診断名を提案している。すなわち、既に述べたような個体の側に生ずる健康障害をその原因である労働の態様との関連で総合的に把握するという視点から、頸肩腕障害を「上肢を同一肢位に保持又は反復使用する作業により、神経・筋疲労を生ずる結果起こる機能的あるいは器質的障害である。」と定義しているところである。
以上の事実を認めることができる。
しかし、産衛学会でいう「頸肩腕障害」なる病名ないし定義づけは、整形外科学会においてなお容認されているものとはいい難い。というのは、「頸肩腕障害」なる病名は、一定の作業の従事が当該疾病の原因であると前提されているけれども、その原因の存否の判断としては、当該患者の主訴についての医学上の判断のほか、本人の従事する作業歴及びその内容、量等の外に本人の生活態様全般に関する事実関係を総合した判断が要求されるべきものであるから、一つの疾病が業務起因性の有無の判断如何によりその病名を異にするのは医学的に妥当とはいい得ないとされるからである。
従つて、公衆衛生学の見地から、なお右診断名を用いるべき必要性の有無についてはしばらく措くとしても、当該患者の疾病(いわゆる狭義の頸肩腕症候群)につき、その業務上外の判断が求められる場合、「頸肩腕障害」という病名の診断がなされるか否かによつてのみその根拠とすることの許されないのは当然というべきであろう。
2 ところで、〈証拠〉によると、被控訴人の本症は、同人が従事した公務に起因するものと判断するとの記載ないし供述がある。
すなわち、〈証拠〉並びに上畑証人の証言によれば、同証人は、被控訴人が入院し治療を受けた前記大田病院において本症について被控訴人を診断・治療した医師の一人であるところ、同人が本症につき公務起因性を肯定すると判断した理由として、①被控訴人が従事した公務が上肢作業であること②同人が従事した業務量③同人の従事した職場環境並びにこれらに加え、本人の病歴、治療内容等を総合して判断したというものである。
しかしながら、公務災害認定上、上肢作業従事者とは、その従事する作業が主として手指作業その他上肢を過度に使用する業務に従事する者をいうと解すべきであつて、被控訴人については、すでに認定したとおり、本人の従事した公務に一部上肢作業の含まれていたことは疑いないところとはいうものの、それは、全業務のうちの一部であつて、主たる内容をなすものではなく、業務全体としては、種々の事務が満遍なく包含せられるところの一般混合事務に属するものというべきである。よつて、本人の従事した公務を上肢作業というのは当らないのである。
次に、同医師が判断の基礎とした被控訴人の担当業務量及び職場環境は、すべて被控訴人の言い分を殆どそのまま採りいれたものであつて、これらについて客観的な吟味が加えられたわけではないのである。そして、これらの点について、被控訴人の原審及び当審における主張ないし供述をそのまま肯認しがたいことはすでに説示したとおりであるから、同証人の本症の公務起因性に関する判断は、医学上の可能性を示唆することにおいてはともかく、これを本件においてそのまま採用することは困難といわざるを得ないものである。
3 次に、証人前田勝義の証言によると、被控訴人の従事した公務は一般普通事務ではあるが、長期にわたる労働負担が本人に過労状態をもたらしたこと、さらに、そのことが本人の精神緊張と筋緊張を助長し、それらの複合的な集積が本症の発現を促したものと認められるから、被控訴人の本症は同人の公務に起因するものであるというのである。
同証人の立論は、公衆衛生学に基づく疫学的見地から本症を観察し、どちらかといえば、治療よりも予防の面に重点をおいて提言しているものであり、もとより労働環境衛生上傾聴に値することはいうまでもない。しかし、本症につき公務起因性の有無が問題とされているのは、公務と本症との間に医学上の関連性があるかどうかということにとどまらず、すでに述べたとおり、公務が本症発現の主たる原因ないし相対的に有力な原因となつているかどうかという観点からの判断でなければならない。そうだとすれば、当該本人の従事した公務の内容、量、執務環境等が果して本症発現の有力な原因となし得る程度に達しているかどうかの判断が重視されるべきところ、同証人が本症の公務起因性を肯認し、その理由付けの基礎資料としたとされる被控訴人の従事した業務量、執務環境、疲労度等は、本人の言い分をそのまま採り入れたに等しいものであつて、そこに十分な吟味の加えられた形跡は認めがたい。そして、これらの点について被控訴人の主張及び供述の採用しがたい部分の余りにも多いことはすでに詳細に説示したところでもあるから、同証人の証言もたやすく採用しがたいといわざるをえないものである。
なお、〈証拠〉も右判断を左右するに足りない。
4 そこで進んで検討するに、前記1において認定した事実に加え、〈証拠〉を総合すると、本症の発病ないし治癒の各経路は現在なお臨床上必ずしも明らかとはいえないとされているところであつて、患者の自覚的愁訴のみ多彩・頑固で、しかも他覚的所見を欠くことが少なくなく、確かに上肢を繁用する集団に本症がより頻発していることは確実であるが、臨床統計上、本症患者のうち、学生・主婦の占める比率が却つて高いことを示しているのであつて、本症発病の因子として肩甲骨や上肢への過重負荷以外の要素を考慮しなければならないといわれる。一般に、三〇歳前後の未婚女性に本症発生率が極めて高いが、従事する作業内容が各種の動作を含む職種、すなわち、座業、立作業、筆記、物品の運搬、印鑑の押捺等いわゆる一般混合事務従事者にはむしろ本症の発病は考えにくいものとされている。さらに、本症発病後、職場で配置転換をされたにもかかわらず三ないし六ケ月経過してもなお本症の障害を訴える者は、労働の過重によるというよりも本人の病的素因を重視するのが妥当であること、換言すれば、当該本人はその種の労務に従事しなかつたとしても本症が発症し、継続した可能性がはるかに大きいといえるものである。また、本症の発症と診断された患者を十年後再検診したところ、背部症状や上肢症状を除いて実に五割ないし六割以上の人が症状の不変ないし増悪を訴えている臨床統計が発表されていること(慶応義塾大学整形外科)等からみても、本症については、治療期間を延ばせば治癒するという関係はなく、或いはまた症状内容と疾病の重症度(難治性)との間にも関連性がないというのが本症の特徴であると臨床医家の指摘するところである(〈証拠〉によれば、日本産衛学会では本症の病像につきI度(軽症)からⅤ度(重症)まで五段階に区分していることが認められるが、右は、診断基準を明確にする目的で疫学的見地より企図されたものであることが窺われ、それ自体有意性は否定され得ないが、他方、〈証拠〉によれば特定の個体においては、本症の病像が右のような区分による病像段階どおりに進行し、或いは治癒するものでもないことは明らかであると解される。被控訴人についても、すでに認定した被控訴人の本症の発症及び治癒経過等を併せ検討してみると、本人が本症罹患後三年以上にわたり本症による症状を訴え続け、かつ通院ないし入院による治療を続けてきたことの外観だけをとらえて、本人の本件疾病が難治性のものであつたと即断することはできないのである。)。以上のように認められる。
5(結論)
右に認定判示したところに加え、被控訴人の従事した公務における作業の態様及び作業量、執務環境等並びに本症発症の経緯等につきすでに認定した事実関係に照らすと、本症の発症原因に公務の関連していることを全く否定することはできないが、公務への従事が、相対的に有力な発症ないし増悪の要因としての意味を持つ程のものとは到底認め得ず、ひつきよう、本症は、本人の身心上の資質・因子を主たる基盤とし、これに公務への従事その他日常生活上の諸要因が肉体的・心理的に絡み合つて発症したものとしか受けとめられない、いわゆる狭義の頸肩腕症候群の一症例にすぎないといわざるを得ないのである。すなわち、本症の発症と公務との間には相当因果関係は認められないとするのが相当である。ここにいう相当因果関係が認められるためには、公務が唯一又は最有力の原因と認められる場合には限られず、本人の素因や公務以外の日常生活上の要因と競合して発症したと認められる場合でも、公務が本人の日々の生活の中に縒り込まれる諸般の要因の一つたる域を超えて、公務による負荷自体に、すでに述べたとおり、発症の相対的に有力な原因をなしたものとの意味付けを与えることが、医学的にみて納得しうる場合は、公務起因性が認められてしかるべきであるが、上来認定したところからは、かかる意味付けを首肯するに足る程の公務負荷を認めることはできないといわざるを得ないのである。
七以上の次第で、被控訴人の本件公務災害認定請求に対し、これを公務外の災害と認定した控訴人の本件処分には違法はないのであつて、これを違法として被控訴人の同処分の取消請求を認容した原判決は失当というべく、これを取消し、被控訴人の本訴請求を棄却することとする。
よつて、訴訟費用の負担につき行政事件訴訟法七条、民事訴訟法九六条、八九条を適用して、主文のとおり判決する。
(裁判官山下 薫 裁判長裁判官横山長は転補、裁判官浅野正樹は転官につき、いずれも署名捺印することができない。裁判官山下 薫)